黒やぎの(てくてくわくわく 街道ウォーク)番外編

ふとした事から街道ウォークの付き人になった黒やぎのひとりごとです。ルピナス主宰の(てくてくわくわく 街道ウォーク)(http://kaz-mt-wisteria.hatenablog.com/)とあわせて見てくださいね

実家にあった自分の部屋

今週のお題「わたしの部屋」

今でも存在する実家は昭和の木造二階建て。人もうらやむ東南の角部屋がわたくしの部屋でした。冬はそこそこ暖かく、真夏はとっても暑くて。でも昭和40年代の夏は今ほど地球温暖化していなくて、夕方になれば、東京の郊外ですので涼しい風が入って来ましたね。

小学校入学前に地元の家具屋さんで買ってもらった勉強机、父親の使っていた大きな本棚、そしてぼくだけベットで。木目調の新建材の壁、これはとてもよく覚えています。

家には白黒テレビが一台、それに、大阪万博の年に買ったカラーテレビ(キドカラーポンパ)いいなあって思っていたら、小6の夏休み前に学校で3日間の日程で、7隻トランジスタラジオの制作というのがあり、ほぼクラスの全男子と少数の女子が参加して。

作業はひたすら半田付け。抵抗を付け、7つのトランジスタを少しづつ付け、1つダイオードがあったな、慎重につけ、3日目の午後、周波数ダイアルをまわして、590kc(キロサイクル:当時のいい方ね)NHK第一放送の声がしたときは、もううれしかったねえ。

さ、自分の部屋でラジオが聞ける。階下で両親が(総合テレビ:お昼のニュース)を見ているときに、あたしは小学生なのに自分のラジオで、NHK正午のニュースが自由に聞ける。うれしかったねえ。ついでに母親が絶対に聞かない、TBSエキサイトナイターとかもこっそり。両親が全く見なかったプロ野球の世界もラジオを通じてね。いつも解説は水原茂さん、実況は渡辺健太郎さんか山田二郎さん、いまのスポーツアナより絶対に上手かったと思います。

昭和52年に、半年かけて、二階の改装工事。わが部屋は東南に半間拡張し、6畳から7.5畳に広くなり、桜の木の床(いい床材だったが今はない)素晴らしい日当たり、それにエアコン(冷暖房)が完備して。よい高校生活、浪人生活、大学生活が送れました。大工さんはとても理解があり、ビニール管で外と部屋をつなぐアンテナ入り口を作ってくれて、短波放送の受信に凝っていたわたくし、屋外アンテナを作ることができ、とても感謝していました。外に既製品の2mのロッドアンテナを立てて。スカイセンサーソニーICFー5900)の受信機会がぐっとふえましたね。

大学生の後半には、親が使わなくなったテレビも部屋に持ち込み、一人で遅くまでテレビを見ていました。金曜日の11PMが好きでしたね。エッチな奴ではなくて、金曜日はまじめな夜でした。大橋巨泉さんの紹介によるジャズの動画とか。Youtubeのない当時、巨泉さんの個人的なものだったのでしょうが、ずいぶんたくさん見せてもらったように思います。あと、海外のスキー場紹介とか。松岡きっこさんもお若くて。

平成5年の結婚まで、ほぼ25年、この部屋にはお世話になりました。

新年度になりましたねえ

旧東海道 街道ウォークを始めてからこの秋でちょうど5年になりますねえ。いま、コロナと個人的事情が重なって、わたくしもルピも、静岡県まで行けないものですから、本当にじっと我慢の春を迎えております。

それにしても、この冬は本当に寒かった。2018年の初頭は大雪がありました。19年は結構寒かった中、新職場への通勤の半分はクロスバイクでしたね。帰りは周囲が茶畑・あるいは梅林みたいなとこを通るのですが、気温2度とか3度の中を真っ暗な19時ごろ自転車で帰宅するのは結構大変で、その春からセミ自転車通勤は完全にやめました。

その次に寒かったのがこの2021~22冬で、あさ、バスに乗っても小窓があちこち開いていて体温が上がらないし、行先で屋外温度計をみると7度以下の日が本当に多かったし

ようやく、桜が散って、暖かくなって、新年度になって、新人さんが配置されて。

よかった。

 

 

 

 

 

 

面接試験で幸運にも

今週のお題「試験の思い出」

3回の転職、現在は4つ目の職場に居ます。官公庁の、もういい年ですから、嘱託。

この嘱託、あまり本気では望んでいなかったのですが、ハローワークの求職活動って結構条件があってね、以前職安に通ったのは、1987年頃、登録して、待期期間があって、それでも3ヶ月間(かすみをたべるようにして)なんとか暮らすと、口頭で

「求職活動してますか?」

「はい、しています」と言って

にっこりしていれば、お給金(失業保険)無条件で頂けたのに・・・

 

2017年に求職活動した時は、

二軒以上求職し、面談にこぎつけないと駄目だと言われました。

最初、ルピが勧めてくれたところは、微妙なところで条件が合わず、せっかく簡易書留で送った履歴書が返送されてきて、とっても悲しかった。

次の行政庁は、何故か大々的に嘱託募集をしていて、

あ、これでいいや、何になるか分からないけど。

 

応募しました。そして、保険課で「はい、二件応募しました」と言って

失業保険をゲット出来ました。

 

試験は、マークシートによる学科と、通過後の面接でした。

高校一年程度の学力試験、試験問題も結構むずかしくて、自信をなくしましたネ。

ところが、不思議と面接までたどり着きました。

こんどはクロスバイクで行き、駐輪場で缶コーヒーを飲んで待っていました。

 

50代の司会の人と、部長さんと主任さんみたいな人と、おはなし。

その町には一度だけ小さな会社に働いていたことがあり、その話をすると、主任さんはとても喜び、そりゃあ、縁があるねえ、他に応募しているところはあるかな?などと言われ、その時は何処もなくて、じゃあ、ウチへ来てくれるかな?なんて和やかに話してもらいました。そして、司会役だった管理職の人の部署で今働いています。

 

いま、末っ子が就活とやらをやっていますが、コロナの影響で

オンライン面接、だそうで、あたしなんかそういうのでは、自分の長所、発揮できないなあなんて、昔の人間なんで思ってしまいます。

そして、面接をしてくれた上に、自分を押してくれた今の上司にもとっても感謝しています。

もう考えてもしょうがない 「無」で行きます

今週のお題「現時点での今年の漢字

ね、すっごいですよね。東京でコロナ 一万四千人 びっくりですわ。

風邪?インフルエンザ?いやいや、油断はならぬ、って言っても、コロナで病院が一杯とか、骨折患者が受入れ先がない、とか、良くない話が伝わって来ています。

学校なんか早く閉めればいいのに、ムリして、(学びの機会を失っては・・)なんて言い始めたりして。

日本って非常時になると意味もなく妙に張り切る癖があって、

本当は出来もしないのにあれもこれも一辺にやろうとし過ぎる。それも(すぐにやれ)ってくる。

コロナが流行ったら、一定期間は活動停止ですよ。みんなとりあえず病気なんだからさ

だから、今は何も考えない、「無」の境地です。

今年はむらさき色になって

今週のお題「手帳」

 

一昨年の変なとき、(3月だったかなあ)ルピナスから譲り受けました。

くろやぎは手帖持っているの?

わたしは、大きなノートにその日あったことを書く業務記録、みたいなことは30代からやっていましたが、予定を書き込む手帖は持ち合わせていませんでした。

そのままもう還暦近くになって。

特に予定を書き込むほど多忙な職務でもなくて。

 

でも、ルピナスの(年度初め:4月スタート3月終わりの手帖)を買うつもりで通年のを間違って買ってしまった、という、使う予定のない手帳、行先のない手帳ががかわいそうでしたので、まあいいか、引き取ってあげようってんで、受取りました。

表紙はピンクで。

会社の引き出しに入れて。

仕事をした日はハンコを押したりして。

 

不思議と習慣になり、去年はミント色、ことしはパープル色の表紙になって同じメーカーの手帳を使っています。

皆さんほど予定を書く項目はないのですけれど、精一杯使って行きます。