黒やぎの(てくてくわくわく 街道ウォーク)番外編

ふとした事から街道ウォークの付き人になった黒やぎのひとりごとです。ルピナス主宰の(てくてくわくわく 街道ウォーク)(http://kaz-mt-wisteria.hatenablog.com/)とあわせて見てくださいね

大渋滞にはまってしまい・・・・・・

28歳のとき、黄金週間のとある日に、箱根で渋滞にはまりました。

当時まだ独身で、自分の車もなく、親の2代目シビック(スーパーシビック)の最終年型に乗っていました。白のマニュアル車。今乗っているヤリスとほぼ同じ大きさで、昔の車ですから角ばっていて、でも取り回しの楽な車でした。

当時愛読していた二玄社発行のCGではなく、NAVIの方を愛読していました。一時も離さず。単身赴任していた中部地方から、ルピナスに会いに土曜日の新幹線に乗る時もずっと読んでいました。

その頃、NAVIには(人生グランドツーリング)というテーマで記事が載っていて、いってみれば、長距離ドライブをしなければ、クルマのことも、クルマを運転しているお前さん(読者)の本当の姿もわからないもんだよ、という内容でした。編集長の大川悠さんの影響が色濃く出ていた記事で、その後も雑誌にはたびたび出ていました。

単純で乗りやすいB型の私も、ちょっとそれに近いことをやってみたくて・・

初めて一人で泊まった町、愛知県豊橋市から東京まで、国道一号線を走ってみよう、

そういう企画を勝手に一人で立てて実行したのが、たしか平成元年の4月29日でした

豊橋をまあ普通の時間に出て、浜名湖の南を通り、浜松バイパスを通り、日本坂トンネルを超えて、静岡、富士、沼津、超の突く順調さで東上、箱根峠のあの広い駐車場で、RFラジオ日本の競馬中継(イナリワンの勝った京都の天皇賞と府中競馬場のサンスポ杯4歳牝馬特別)を余裕で聞いていたのですから。

まあ、軽く出来そうだな。日本橋着いたら何食べよう?

このあたりの浅はかな頭の中が、28歳なんですね。

箱根の最高地点を過ぎて、小涌園の少し手前で・・・・・・・渋滞になりました。

 

箱根を降りるのに・湯本を過ぎても一向に車は減らず・・・小田原まで2時間半かかりました。

 

その後、どうやってそこに着いたか不明なのですが、平塚駅の南口に着いたのが21時

公衆電話で自宅に電話し、1号線走行を断念し、知っている道で帰るから、あと3時間くらいで・・と話した記憶があります。

そのころ知っている道と言ったら、ルピナスと車で走ったことのある134号~原宿合流~横浜新道~第三京浜国道~都内。この道なら、地図を見なくても走れるのでした。今考えると1号線そのまま走った方が近いのに、何を考えてんだかって・やっぱり12時間近い走行で頭が疲労しているのね。おバカな判断力。

でも無事に、3時間で帰宅することが出来ました。

藤沢の遊行寺の勾配とか、箱根峠のだだっ広いパーキングとか、なあんか既視感があったのですが、多分この馬鹿ツーリングドライブのせいですね。今は亡きシビックとともに良い思い出です。

たまには本でも買わないと

週刊新潮の5月5日・12日合併号に私が選んだ5冊の本(黄金週間向けなんでしょうね)に、評論家の川本三郎さんが

東海道五十三次いまむかし歩き旅」

という本を紹介しています。著者は高橋真名子さんという女性の方。実際に旧東海道を自分で一往復歩いた、と、書いてあります。

 

興味があるので、もしかしてあたしらと志は一緒かなとも思い、いま、アマゾンで注文しました。読んでみて、このブログにふさわしかったら紹介します。

河出書房新社の発行で、定価:2475円(単行本だから、ちょっと高いね)

実家にあった自分の部屋

今週のお題「わたしの部屋」

今でも存在する実家は昭和の木造二階建て。人もうらやむ東南の角部屋がわたくしの部屋でした。冬はそこそこ暖かく、真夏はとっても暑くて。でも昭和40年代の夏は今ほど地球温暖化していなくて、夕方になれば、東京の郊外ですので涼しい風が入って来ましたね。

小学校入学前に地元の家具屋さんで買ってもらった勉強机、父親の使っていた大きな本棚、そしてぼくだけベットで。木目調の新建材の壁、これはとてもよく覚えています。

家には白黒テレビが一台、それに、大阪万博の年に買ったカラーテレビ(キドカラーポンパ)いいなあって思っていたら、小6の夏休み前に学校で3日間の日程で、7隻トランジスタラジオの制作というのがあり、ほぼクラスの全男子と少数の女子が参加して。

作業はひたすら半田付け。抵抗を付け、7つのトランジスタを少しづつ付け、1つダイオードがあったな、慎重につけ、3日目の午後、周波数ダイアルをまわして、590kc(キロサイクル:当時のいい方ね)NHK第一放送の声がしたときは、もううれしかったねえ。

さ、自分の部屋でラジオが聞ける。階下で両親が(総合テレビ:お昼のニュース)を見ているときに、あたしは小学生なのに自分のラジオで、NHK正午のニュースが自由に聞ける。うれしかったねえ。ついでに母親が絶対に聞かない、TBSエキサイトナイターとかもこっそり。両親が全く見なかったプロ野球の世界もラジオを通じてね。いつも解説は水原茂さん、実況は渡辺健太郎さんか山田二郎さん、いまのスポーツアナより絶対に上手かったと思います。

昭和52年に、半年かけて、二階の改装工事。わが部屋は東南に半間拡張し、6畳から7.5畳に広くなり、桜の木の床(いい床材だったが今はない)素晴らしい日当たり、それにエアコン(冷暖房)が完備して。よい高校生活、浪人生活、大学生活が送れました。大工さんはとても理解があり、ビニール管で外と部屋をつなぐアンテナ入り口を作ってくれて、短波放送の受信に凝っていたわたくし、屋外アンテナを作ることができ、とても感謝していました。外に既製品の2mのロッドアンテナを立てて。スカイセンサーソニーICFー5900)の受信機会がぐっとふえましたね。

大学生の後半には、親が使わなくなったテレビも部屋に持ち込み、一人で遅くまでテレビを見ていました。金曜日の11PMが好きでしたね。エッチな奴ではなくて、金曜日はまじめな夜でした。大橋巨泉さんの紹介によるジャズの動画とか。Youtubeのない当時、巨泉さんの個人的なものだったのでしょうが、ずいぶんたくさん見せてもらったように思います。あと、海外のスキー場紹介とか。松岡きっこさんもお若くて。

平成5年の結婚まで、ほぼ25年、この部屋にはお世話になりました。

新年度になりましたねえ

旧東海道 街道ウォークを始めてからこの秋でちょうど5年になりますねえ。いま、コロナと個人的事情が重なって、わたくしもルピも、静岡県まで行けないものですから、本当にじっと我慢の春を迎えております。

それにしても、この冬は本当に寒かった。2018年の初頭は大雪がありました。19年は結構寒かった中、新職場への通勤の半分はクロスバイクでしたね。帰りは周囲が茶畑・あるいは梅林みたいなとこを通るのですが、気温2度とか3度の中を真っ暗な19時ごろ自転車で帰宅するのは結構大変で、その春からセミ自転車通勤は完全にやめました。

その次に寒かったのがこの2021~22冬で、あさ、バスに乗っても小窓があちこち開いていて体温が上がらないし、行先で屋外温度計をみると7度以下の日が本当に多かったし

ようやく、桜が散って、暖かくなって、新年度になって、新人さんが配置されて。

よかった。

 

 

 

 

 

 

面接試験で幸運にも

今週のお題「試験の思い出」

3回の転職、現在は4つ目の職場に居ます。官公庁の、もういい年ですから、嘱託。

この嘱託、あまり本気では望んでいなかったのですが、ハローワークの求職活動って結構条件があってね、以前職安に通ったのは、1987年頃、登録して、待期期間があって、それでも3ヶ月間(かすみをたべるようにして)なんとか暮らすと、口頭で

「求職活動してますか?」

「はい、しています」と言って

にっこりしていれば、お給金(失業保険)無条件で頂けたのに・・・

 

2017年に求職活動した時は、

二軒以上求職し、面談にこぎつけないと駄目だと言われました。

最初、ルピが勧めてくれたところは、微妙なところで条件が合わず、せっかく簡易書留で送った履歴書が返送されてきて、とっても悲しかった。

次の行政庁は、何故か大々的に嘱託募集をしていて、

あ、これでいいや、何になるか分からないけど。

 

応募しました。そして、保険課で「はい、二件応募しました」と言って

失業保険をゲット出来ました。

 

試験は、マークシートによる学科と、通過後の面接でした。

高校一年程度の学力試験、試験問題も結構むずかしくて、自信をなくしましたネ。

ところが、不思議と面接までたどり着きました。

こんどはクロスバイクで行き、駐輪場で缶コーヒーを飲んで待っていました。

 

50代の司会の人と、部長さんと主任さんみたいな人と、おはなし。

その町には一度だけ小さな会社に働いていたことがあり、その話をすると、主任さんはとても喜び、そりゃあ、縁があるねえ、他に応募しているところはあるかな?などと言われ、その時は何処もなくて、じゃあ、ウチへ来てくれるかな?なんて和やかに話してもらいました。そして、司会役だった管理職の人の部署で今働いています。

 

いま、末っ子が就活とやらをやっていますが、コロナの影響で

オンライン面接、だそうで、あたしなんかそういうのでは、自分の長所、発揮できないなあなんて、昔の人間なんで思ってしまいます。

そして、面接をしてくれた上に、自分を押してくれた今の上司にもとっても感謝しています。