黒やぎの(てくてくわくわく 街道ウォーク)番外編

ふとした事から街道ウォークの付き人になった黒やぎのひとりごとです。ルピナス主宰の(てくてくわくわく 街道ウォーク)(http://kaz-mt-wisteria.hatenablog.com/)とあわせて見てくださいね

きのう、行ってきました。

いつも、くろやぎ番外編にご来訪ありがとうございます。

さて、昨日2月10日(日曜日)第21回街道ウォークを実施しました。天候は曇りでほんの一時小雨も降り、地元の皆様は今日は寒い寒いという、そんな日でしたが、良いウォークが出来ました。区間は、柚木駅新蒲原駅

写真を整理ののち、追ってご紹介いたします。とりあえず、ご報告を。

 

山を越えて

今週のお題「わたしとバレンタインデー」

バレンタインデーは、一度だけ、良い思い出があります。仕事で、東京から少し遠い地方に居たとき、手作りのチョコを頂きました。電車に乗って、山を越えて、持ってきてくれた人に、チョコに、今でも感謝です。

そのチョコレート、誰から?

え~、聞かないの、細かいことはいいんです(笑)

きょうは2月7日

昔からなんでもない平日の2月7日ですが、くろやぎの母校、武蔵野台地にある私立X学園は、2月7日と8日の二日間が、入学考査でした。入試だから学校は休み、生徒諸君は休日、とはいかないところが、昭和の学校です。

最近の言い方では中高一貫、である✕学園。2月7日は小遠足と称し、中一から高三までの各学年一名ずつで班を作り、班長国土地理院作成、2万五千分の一の地形図をわたされて、出発点から数か所のチエックポイントを通って目的地まで行く、という遠足をやっていました。

難易度と疲労は比例します。くろやぎの場合、中一の小遠足はいちばんひどいものでして、昭和49年2月7日、底冷えのするくもり時々小雨の中を、西武線武蔵横手という小駅に集合、北上して鎌北湖、南東に下って宮沢湖小手指ヶ原古戦場を通って、狭山湖駅(現西武球場前駅)がゴール、解散、というものでした。とりわけ、鎌北湖から宮沢湖にすすむ道が難解で、別にコース設定時間はないゆるい遠足でしたが、班は大きく後れをとり、小手指ヶ原ではもう疲労困憊、最後は遠くに水銀灯が一つしか見えない、暗闇の狭山湖堤防を、足を引きずりながら前に進み、18時30分ごろ、9時間近くかけて、狭山湖駅に着きました。25班くらいあったはずですが、私たちの班は

「ケツから三番目」

と、リーダーに言われて、ぐったりした身体を、古くて木の床だった二両編成の電車のローズ色のシートに座って帰りました。

あの時の疲労にくらべれば、街道ウォークは苦になりません???

その後、だんだん、小遠足に耐えられる脚力が付き、よく翌年、実に軽い企画で、

拝島~学校まで。13kというのがありました。(昭和48年度は30k弱)

好天に恵まれ、道中は五日市街道+玉川上水沿いという、超らく~なルート。一年生も居たのに我々の班は絶好調で、同じ9時スタートなのに、13時にはゴールの学校(寮の食堂)に着いてしまい、順位は、

「3位だよ、よかったねえ」とリーダーが笑顔。

大して疲れもせず、そのまま帰宅して、母親が驚いておりました。

 

15年くらい前まで、✕学園の近くに住んでおりましたので、2月7日になると、おお、後輩たちよ、小遠足の日だな、まあがんばるように、などと偉そうに心中で思って駅に向かって出勤徒歩しておりますと、まあ、今の学校は甘いな、館外学習なんでしょうが、きれいな観光バスが何台も準備されて、続々と出発していきます。時代なのでしょうが、若いやつはこれだからダメなんだよな、って思っていました。

おかげさまで、ルピナスと街道を歩いていても、それほど?音を上げないのも??いにしえに、✕学園で鍛えられたおかげと、感謝しております。

ワッペン列車のこと

その頃一介の私立小学校が、どうやってまあワッペン列車の座席を確保したのか、当時の先生の多くは他界されていて、また、もう聞くすべもなくて、分からないことが多いのですが、乗客一人一人にワッペンをくれるこの列車、くろやぎはかなり気に入っていました。

翌小学校3年の時は、新宿から(だったと思う)(解散は両国?だったかな)(記憶があいまい)ケープ犬吠号で銚子まで参りました。

新宿~千葉間は39kあまりあり、まだ電車の総武快速線は存在しませんでしたので、列車は全部、ディーゼル車か、汽車(SⅬ)。汽車は朝、晩の普通列車のみだったようですが、そのほかに貨物列車も担当していたようでした。昔の列車はいまほど冷房がありませんでしたから、遠足の季節、走行中に窓を開けていると、蒸気機関車がすれ違う前にブオッツと汽笛を鳴らすので、いつもドキッとしていました。70年から75年ごろまで、消えゆく蒸気機関車ってなかんじの、SⅬフィーバーが日本中に巻き起こりましたが、あたしがSⅬに興奮しなかったのは、単に汽笛が苦手(こわがり)だったためでした。

それにくらべて、ディーゼルカーは川崎の伯母のうちで、入換用機関車を見慣れていますから平気で、エンジンの振動も大好き(今でも)千葉までどこにも停まらないで、最高の気分でした。

ケープ犬吠号は、千葉から先は行きも帰りも、既存の普通列車に併結する形で進むのでちょっとゆっくりでしたが、でも、成東とか八日市場とか総武本線の知らない土地を通っていくのは楽しかったです。

銚子で降りた後、バスで犬吠埼に行ったり、銚子大橋を渡って茨城県側に行ったり、かなりあちこち行きました。

帰りの解散は両国でした。今の両国駅の、低い方が総武線、房総西線、房総東線などの急行の発着ターミナルで、この時は新宿と違って遠いので母が迎えに来てくれました。国電総武線(カナリヤ色の101系)に乗って一息つくと、電車は隅田川を渡ります。高度成長期、水が異臭を放っていましたが、今ではすっかりきれいになったそうですね。

帰路は新宿駅

その時、昭和43年の遠足はマウント富士号でその日のうちに帰京しました。小学生なんだから当たり前ですが、終点の新宿で、解散。

集合も解散も今はない国鉄新宿駅団体集合場所みたいなところで、吹き抜けの空間のある広いところ、今の東口ルミネのたぶん1階部分だと思います。つい30年くらいまでありましたよ。たぶん、ルミネの増築・改修だどで変わったのでしょう。いまでも黒っぽい斜めの大きな柱の色まで覚えています。

今と同様に、階段を降りて、新宿駅の東口改札に行って帰ります。ぼくの行った学校は案外のんきだったのか、放り出すのが上手いのか、親の迎えのない小学生が結構いて、東口改札から地下道を数名で探検するように、今の15番線の山手線外回りホームまで子供だけで歩きました。けさ、こっちから来た、うん、これだよな、そうそう、ってな感じで、平日の夕方、今ほどではないですが、ラッシュ時に子供だけって、あたしら、けっこう勇気あったなって思います。無事に池袋方面のホームに着きました。

南口・新南口・サザンテラス口など、出入り口は増えましたは、基本的な形はその頃からあまり変わっていない新宿駅。探検をしたせいではありませんが、この駅の構造には自信があります。