黒やぎの(てくてくわくわく 街道ウォーク)番外編

ふとした事から街道ウォークの付き人になった黒やぎのひとりごとです。ルピナス主宰の(てくてくわくわく 街道ウォーク)(http://kaz-mt-wisteria.hatenablog.com/)とあわせて見てくださいね

のんびりした人でした

今週のお題「お父さん」

ちょっとのんびりしていて、不思議な存在の父親でした。メーカーに勤めていたのですが、夜遊びが好きで、有休休暇は100%消化して、土日はテレビの優良鑑賞者でした。ソファでリラックスし、ハイライト、チェリー、セブンスターなど、その時の流行りのたばこを一日10本程度吸いながら休日を過ごしていました。

今の地上波テレビはバラエティ中心で、スタジオに人が来る形式が多いのですが、昭和のテレビは、映画放映、テレビドラマ、時代劇など、多かったですね。父は時代劇、それからアメリカのテレビドラマ、好きでしたね。

時代劇は映画をやっていれば必ず見ていたし、長谷川伸シリーズや座頭市も見ていました。映画の座頭市は小学生だった私も一緒に見ていました。座頭市はすぐ女の人と仲良くなるので、斬りあいシーンだけでいいのになって、子供だった私は思っていました。まだ女子と懇ろになることの大切さがわかっていないのですな。

アメリカのテレビドラマは、渋いこわいやつ、たとえばロバートスタックの出ていた、アンタッチャブル、見ていました。これもわたくしも一緒に。30年代の暗黒街の話で白黒のドラマですから子供には怖い。父が「こいつはやられる」「そこで逃げりゃあいいのに」「女をかまっていると隙が生まれる」などと誰に言うでもなく独り言を言うとドラマは本当にその通り展開し、やっぱりアメリカでは緊張していないと生きられないな、ピストルで撃たれてやられるなと思いました。これが小4あたりの思考でした。アンタッチャブルは何回か再放送がありましたが、昭和47年ごろ、東京12チャンネルで土曜日の午後五時からやっていました。文藝春秋社の一社提供で、ドラマが白黒だとⅭⅯも白黒フィルム、まだ若かったはずなのに、髪が白く映っているように見える作家さんがⅭⅯに出ていて、不思議な感じがしました。

後から考えると司馬遼太郎さんだったように思います。

父は60歳までメーカーに勤めると、あとは悠々自適、2階の自室でテレビを見て暮らしていました。70歳ごろまでは元気で、あたしと一緒に一回だけ鈴鹿サーキットに付き合ってくれました。名古屋のホテルに一緒に泊まり、近所の、昔転勤で来ていたころからなじみのうなぎやで酒を飲みました。昔の話も随分聞いてあげました。

たぶん父親ののんびりしたところ、鷹揚なところ、でも小さなところで短気を起こすところ、集団に入れば如才ないけれど、基本的には一人が好きなところなど、自分も親の性格の一端を受け継いでいます。

ああしろ、こうしろと、指図することは一切なくありがたかったなと思っています。

さ、このあと、線香1本あげてこなきゃ。

バス停で待っていた

中央線✕駅で実家に行くバスを待っていた。

もともとバス自体が1時間に2本とか3本とかで少ない路線なので、駅で立そばを食べてから悠々とやってきた。ここは、川崎の伯母がよく家に送ってくれる時、池袋を廻るか、(地下鉄)東西線で帰るか?と、小さかったくろやぎに選ばせてくれて、たいてい、東西線で帰る、と答えたもので、何でかというと、中野駅のあたりでふわんと地上に出てくるところがたまらなく好きだったから。

もうこのバス停で実家行のバスを何度も待っていて。そう、なかなか来ない、✕駅は関東バスのエリアで赤と白の関東バスは死ぬほどやたらに来るのに、笹の葉色のB電鉄バスはわずかで少数派だからちっとも来なくてね。ロータリーの向こうの方に駅舎、そして紀ノ国屋(スーパーの方)などが入ったアトレというビルが見える、吉祥寺とかと違って小さなビルで4階建て、その隣に子供の頃からある花屋が新装開店して見える。以前はその駅ビルのあたりに、さえない、清潔感のない立そば屋があって、一度だけ伯母と母と3人でバスを待っている子供の頃、伯母が(あまりにバスが来なくて)立そば食べて来ようかなあって言って、よしなよお店キレイじゃないよって母がいって、バスをひたすら待っていた記憶がある。伯母の声が聞こえる様な気がするな。

ロータリーは横に拡張されていたが基本レイアウトは変わっていなくて、でも、バス停のそばの銀杏の木も、真ん中の円エリアのメタセコイアも楠も見上げるように大きくなっていて、昔は向こうのビルが遮られずに見えたように思えるね。右側のビルは一時期現金買い付けでおなじみの城南電機が入っていたところで。あの初老の社長さんも、テレビに沢山出て、というより世間にもみくちゃにされて、自分の商売のペースをすっかり失い、案外早くに亡くなってしまった。人気者になるのもいいけれど、寿命を縮めてはもったいない。

実家行のバスは夕方にもかかわらず1時間二本になっていたが、そんなこんなの昔を思い出していたら案外早くやって来て、席に着いたとたんに今日の暑さと疲れですっかり眠り、降りる4停留所前の団地入口まで全く知らなかった。

久米宏さんに感謝

長年、TBS東京放送の看板アナウンサー、ニュースステーション等の司会進行役を行っていた久米宏さん(75歳:フリー)が6月一杯で、現在唯一の担当番組である(ラジオなんですけれど)を引退終了することになった。

 

久米さん、75歳なんですね。昭和19年生まれ、田中真紀子さんと同年代。話し方や頭の中身がそれほど変わんないんで思わなかったけれど、そうですか、引退ですか。

 

くろやぎ、自分の母親が昭和40年代、NHKフリークだったので、頭の中はNHKだけで、小学校時代のほとんどを過ごしましたネ。唯一民放を見たのは、不二家子ども劇場のポパイ、あとオバQ、フジテレビで始まったムーミンも見せてくれましたが、第1回でどうも違うなと思い、自分から見ませんでした。あと親が見ていたドラマで民放だったのは木曜20時のありがとう、第二シリーズ、山岡久乃水前寺清子の、看護婦さんのやつ、これは毎回見ていました。中原ひとみ親子が出てくるカルピスのⅭⅯがきれいだったなあ。

 

転機は、小学校6年生の夏にやってきました。有志で7石トランジスタラジオを作ろという、男子限定、大学生のおにいさん3人の監修コーチ手助けのもと、理科室に3日間こもって、AMラジオを作るというのです。トランジスタ7個ダイオード1個、おまえら、はんだ付けは瞬間でやるんだぞ、トランジスタ7秒、ダイオードは1秒でつけろと檄が飛び、3日後、めでたく、東京で一番電波の強いAM局、NHK第一放送590キロサイクル(昔の単位標記ね)音が聞こえました。うれしいねえ。

そこで、各局の受信状況を、、、確かめると、9という字の少し先に、良く聞こえるにぎやかな放送局があって。TBSラジオ、で、ありました。

この瞬間、親の管理下より、メディアを好きなだけ聞ける自由を獲得できたのです。

 

さあ、土曜日です。小学校は早くに終わるのですが、稽古事があって、帰り時間がいつも16時前くらい、自転車で焦って帰って来て。昭和47年の後半、TBSラジオは、「土曜ワイドラジオ東京 にんげんばんざい」というのを、16時まで?やっていました。お昼からなのか、午前9時からなのか、それまでのプロセスは全く分からないままエンディングの5分くらいを聴くんですね、永六輔さんの番組で、蝮さん、久米宏さん小島一慶さん、ニュースデスク、ひととおり一人30秒くらいの中にひとこと言って、親分の永さんがかかかかって楽しそうに笑って、ちょっと若いものに注意して、最後に若くてかわいい声の遠藤泰子さんが番組テーマ音楽に乗って出演者を紹介する、

出演:永六輔毒蝮三太夫久米宏小島一慶、ニュースデスク楽まもる、

TBS950キャスタードライバーグループ(そしてちょっと安どの表情で)遠藤泰子

これを、家で聴いてもしょうがない、そう思って、7石ラジオを自転車のかごに入れて夕日に向かって走りながら聞くというのを、やっていたんです。

この番組、けっこう、おとなのおふざけ色のある番組だったんですが、さすがに11歳の小6男子には、笑うセンスが全く分からなくて、むずかしかったね。NHKは万人向きでぼくにもわかったのですが。おとなの世界ってこういうもんなんだなって。たぶん、永六輔さんの趣味の世界だったんでしょうが。

 

プロ野球中央競馬、ジャズ、両親にない文化をたくさん持ち込み、6年後には、母親もTBSラジオを聴くようになりました。久米さんがメインになった土曜ワイドラジオ東京、女性アナウンサーの石井和子さんが優しい声でいい人だったなあ、あとおすぎとピーコが最高に楽しかった。

すずきくんのこんがりトースト、おはよう土居まさるです、こんちワ近石慎介です、みんなわくわくして、楽しかったですね。

 

だんだん、TBSよりもラジオ関東に移行して、そのうち、世帯主になって、近鉄を応援しながら文化放送を聴くようになって、11歳だったくろやぎももうすぐ60近く。TBSは民放の老舗ですが、昨日書いたラジオ日経同様に、放送局としての維持に対して広告収入が伸びず、お金のかかるらしいプロ野球中継もやめてしまったし、無類の聴取率首位を走ってきた大沢悠里さんの番組も終了して、週1になってしまうし、久米さんも引退。

もう、ラジオパーソナリティを生み出す、そういう要素が世の中にないのでしょう。個性のありすぎる人は個人的にボクは苦手で、久米宏さんもクセのある人でしたが、話し方にオブラートがあって、とてもよかった。芸人さんとか、テレビと同じだからね。小島慶子さんはかなり好きでしたが、毎日あの濃い内容の話をしていたら、4年も続いたのが奇跡のようで、長持ちしないだろうって思っていました。とんがっていたところも、周囲はハラハラしたろうしね。

久米さんがいなくなって、また、TBSを聴かなくなるだろうねえ。CDの時間が増えるんでしょうね。長い間、ありがとうございました。どうかいつまでもお元気で。

 

 

 

 

ずっとテレビ観戦

というわけで、第1回函館競馬初日を、ラジオ~テレビ観戦で見ておりました。くろやぎはご承知かもしれませんが基本的にはラジオの人、なんですが、この、ラジオ日経という競馬中継の老舗放送局は、短波放送に力を入れていなくて、ラジコの放送局になろうなろうと、あすなろ状態、短波はその日の電離層の状態によって聞こえたり聞こえなかったりするんですね。

今朝は大体よく聞こえたので、ラジオたんぱ第一放送で聴取しておりましたが、午後はラジオの感度がだんだんと落ちてきたので、それと走る姿をテレビで見たくなったのでCSグリーンチャンネルも併用し観戦致しました。

東京競馬、阪神競馬がいずれも雨でぐちょぐちょ、乗り役さんは前の馬から飛んでくる泥はねでウエアー真っ黒なのに、函館は信じられないほど天気が良く超晴天、いい感じで競馬を行っておりました。

でも無観客ってのはかわいそうだよね、特に地方遠征のばあいはね。福島とか新潟、函館はお客さん入ってほしいですよ。競馬が来るのを楽しみにしている方が沢山居るんですからねえ。それに競馬場を仕事場にしている、売店の人、立そば屋、ラーメン焼き鳥ミニ居酒屋の店員さんや、なんとか美装のお掃除のおばさんたち、みんなお仕事ないわけでしょう、そういう方々のためにも、早く観客を入れて本格再開してほしいなあと、希望するわけであります。

競馬が終わって、いまはプロ野球オリックス阪神の練習試合を見ています。6回の裏2死、後藤駿太さんが苦手の内角落ちる球を軽くライト前ヒット(打撃上手くなりましたなあ)つづく一番打者のT-岡田さんが、上手く力を抜いて、右翼に長打で1点獲得、気持ちよくいい感じでした。オリックスは不器用な野手、成長途上の投手が多くてペナントレースではもみくちゃにされる方なんですが、今年は試合数も少ないし、誤魔化しが効けば上位浮上のチャンスがあるかもしれない。ちょっと期待してしまいます。

さあ、きょうから函館競馬

いつも6月20日前後から開始する中央競馬の函館シリーズ。今年はちょっと早めで、きょう6月13日から開催です。くろやぎは函館が大好き。もちろんここ30年くらい行っていないので自分の頭の中のイメージなんですが、前回行ったとき、もちろん函館競馬場にも行きました。夏の函館競馬開催中で、函館記念という一番さかんに盛り上がる重賞を見ていました。メインキャスターという馬に投票したところ、めでたく2着に来てくれて、その後5日間の観光にも気持ちよく支出して。いい日だったなあ。

というので、衛星放送で中央競馬(函館中心に)見て、JRAのHPで出馬をチェックして、勝手に一人で楽しもうと思います。これを機に即PATも始めようかと一瞬考えたのですが、お金が絡むと純粋に楽しめなくなると判断し、競馬新聞も(長年使っていたダービーニュースがとっくの昔に休刊しているので)お気に入りが結局なくて、裏開催の函館は、新聞によっては全レース掲載されているとは限らないし、そちらもやめて、あ~こんなことでは経済が回らないと思いつつ地味に楽しむこととしました。

第1回函館競馬一日目、第一競走は9時50分です。