行ってきました三島まで
もう、8月4日のことなので、ちょっと忘却の彼方だが、歩いたよ、三島まで。
暑かった。旧街道の日陰を通る風はさすがに涼しさを感じたがそれも次第に気温に負けて、とにかく、暑かったね。とくに、テーマパークのようなコンクリで固めた施設は、暑かったな。トイレだけ借りて、早々に退散した。車で来た人が沢山居たけど。
塚原の一里塚、分かんなかったねえ。ガイドブックはときどき場所の正確さがなくなって、ホントにここ??ってことがあったんだけど、この一里塚は本当に分からなかったよ。ルピナスの現地調査員としての優秀さを証明したような出来事だった。
そんなこんなで、ようやっと三島に。約6時間半の歩行。
三島の街は、昏々と豊かな湧き水のまち。疲れ切っていた私たちを慰めてくれました。
詳しくは、ルピナスのブログをご参照くださいね。
川崎です。
以前も書きましたが、あたしの生まれたのは、川崎です。いま、高層住宅や音楽ホールのある川崎駅の西口。昭和の終わりまでは、国鉄の線路のそばに、変電所、川崎市営住宅、それに住宅公団の大宮団地がありました。町名も大宮町というところ。
あたしの両親が、全人生のほとんどの運を使って、抽選倍率ウン百倍の、この公団住宅を当てて、昭和33年に移り住み、そのあと、あたくしが生まれました。
生まれてすぐに、父親の転勤で引っ越しましたので、川崎は単なる出生地です。
せっかく当てた公団住宅は、母の兄弟や祖母が住んで、建て替わった今も権利を持っているそうです。母の6歳年上の伯母が優しかったので、よく泊まりに行きました。
昭和40~50年代、団地3階の窓からは、夏の大空が見えました。線路の向こうは改装前の、いまはなき、(さいか屋)そして、縦形の看板が小さく見える(ミスタウン)前の棟、二棟の間からは、東海道線の線路が見え、一番早い南武線の始発電車が、矢向から川崎にやってきます。たしか、4時30分頃。子供の頃の電車は吊り掛けモーターですから、音が大きいのね。優美な20系の寝台特急、働き者の貨車入換用機関車DD13、チョコレート色の南武線72系、子供の頃に帰りたいって、川崎を通るたびに思います。
おじさんからパンフをもらった。
箱根峠の少し先に、元は大ドライブインだったかと思われる大駐車場。自家用車が10台くらい停まり、皆さんがのんびりとしています。店屋のないだだっ広い駐車場というのも悪くないが、箱根旧街道は、この後何処に行くのでしょうか?と、わたしもルピナスも困惑気味。ゴルフ場に向かうらしい車道が、国道と別に右へ伸びていますが、ここ?
と思っていると、沼津ナンバーの乗用車に乗って休憩していたおじさんに呼び止められました。山中の方にいくの??フレンドリーな人でした。おじさんはどこかに消えると二分後にやって来て、これで行きなよって、パンフをもらって。
実は、ルピナスのガイドブックとともに、くろやぎが用意する今の静岡の地図、箱根よりが縮尺がでかくて、旧道は全く記載がなく、山中まで行くのに不安だったんですよ。いやあ、おじさん、助かりました。
パンフレットはA4見開きで、箱根峠の入り口から山中、塚原、ずっと下の三嶋大社まで旧街道のことが詳細に記載されて。史跡のイラストも入り、とても参考になりましたよ、著作権がありますから表紙だけに留めておきますね。