黒やぎの(てくてくわくわく 街道ウォーク)番外編

ふとした事から街道ウォークの付き人になった黒やぎのひとりごとです。ルピナス主宰の(てくてくわくわく 街道ウォーク)(http://kaz-mt-wisteria.hatenablog.com/)とあわせて見てくださいね

今日食べたのは

今週のお題」 好きなアイスについて

 

きょうは、5連敗か?ずっとロッテマリーンズに負け続けている、オリックスの試合をテレビで見ながら、ハーゲンダッツ(白桃)を食べていました。涼しい日でしたので、ちょうどよく。

野球ですか?やはり、負けました。勝ち運がないみたい。6連敗です。負け仲間の阪神タイガースは昨日勝ったみたいで(今日のことはまだ知らない)日本のプロ野球球団で一番というか極端に成績が悪いのがオリックスであります。別のラジオの方の解説者がチームがバラバラとか言っていました。ちょっと悲しいなあ。

でも、気を取り直して、火曜日から応援します。

子供の頃、雪印シャーベットがとても好きでした。オレンジ味しかなかったような気がするなあ。でもどこのパン屋、駄菓子屋、おばちゃんが一人でやっているような小さな商店、どこにでも、大きなスノーブランドマークの雪印アイスクリームの冷凍庫がどんとおいてあり、7歳くらいの子供だったら覗けるような高さで、さまざまなアイスが陳列されていて、冷凍庫の周りにはしもが付いていて、あれを見るだけで、美味そうだったんですよ。今の、コンビニやスーパーのちょっと無機質な冷凍庫と違ってね。最後に食べたのは昭和47年頃だったかなあ?オイルショックと共に、同製品は目にしなくなりましたねえ。

アイスかあ、これから暑くなってどんどん美味しくなるでしょうねえ。

 

最下位候補のオリックスを応援しています

お題「#応援しているチーム

中学一年からプロ野球近鉄」という弱いチームを応援していました。朝日新聞の運動欄(パ・リーグ成績)でいつも一番下。ビリ。一番はその頃阪急ブレーブスで、成績もダントツでした。

育った家はプロ野球を全く、ぜんぜん、長嶋も王もなにもない家で、誰もナイターなんか掛けないし、見もしない。その中、全く独力でプロ野球とは何か、近鉄の弱さの根源は?と杉田玄白の解体新書にように手探りで研究していました。

翌昭和49年に(若手教育で有名な?)西本幸雄さんが近鉄の監督になりました。それまでぬるま湯、同好会気質の近鉄が少しづつ、投手陣も野手も整備され、王者阪急にちょっとですが勝てるようになって。当時はパリーグのテレビ中継はほとんどなく(年に数回のNHK総合テレビくらい)ラジオはNHKが週1回から2回くらいありましたが、近鉄をはじめとするパリーグの中継は勉強を置いてでも聴くようにしました。

よく覚えているのは昭和53年ごろの(クラウン対近鉄)戦で、近鉄がリードしていたのですが最終回のクラウンに猛攻を食らい、最後は大田卓司選手のサヨナラ安打であっさり負けたことでした。クラウンは決して強いチームではないのですが、観客の声援がものすごく、最後は大騒ぎになるほどでした。なるほど西鉄を盛り上げた平和台のお客さんのパワーを感じました。

近鉄はその後も苦労するのですが、前後期制や上田利治監督が勇退された時期に阪急がちょっと弱くなったこともあり、昭和54年に初優勝、55年にも連覇をしました。江夏さんやライトルさんなど広島カープに比べればまだまだでしたが。

西本幸雄さんがいなくなった後、がくんとチーム力が落ちるのですが、長年コーチだった仰木さんが監督になって、若返って、川崎で10・19で涙をのみますが翌年にはにっくき西武ライオンズを破って優勝します。

そんなこんなで、近鉄がなくなった後、オリックスを応援しています。

オリックスも選手の多くは不器用で、数人のエース格の投手、吉田正尚を中心とするやや長打を打てる者以外は、まだまだ力不足で、首脳陣もまた素人から見るとなぞの采配が多く、白星を取りこぼしやすい体質なのですが、いつもいつも週刊誌で評論家たちに軽く見られているのを、今年こそ何とか払拭してほしいと思います。4位でいいから。

のんびりした人でした

今週のお題「お父さん」

ちょっとのんびりしていて、不思議な存在の父親でした。メーカーに勤めていたのですが、夜遊びが好きで、有休休暇は100%消化して、土日はテレビの優良鑑賞者でした。ソファでリラックスし、ハイライト、チェリー、セブンスターなど、その時の流行りのたばこを一日10本程度吸いながら休日を過ごしていました。

今の地上波テレビはバラエティ中心で、スタジオに人が来る形式が多いのですが、昭和のテレビは、映画放映、テレビドラマ、時代劇など、多かったですね。父は時代劇、それからアメリカのテレビドラマ、好きでしたね。

時代劇は映画をやっていれば必ず見ていたし、長谷川伸シリーズや座頭市も見ていました。映画の座頭市は小学生だった私も一緒に見ていました。座頭市はすぐ女の人と仲良くなるので、斬りあいシーンだけでいいのになって、子供だった私は思っていました。まだ女子と懇ろになることの大切さがわかっていないのですな。

アメリカのテレビドラマは、渋いこわいやつ、たとえばロバートスタックの出ていた、アンタッチャブル、見ていました。これもわたくしも一緒に。30年代の暗黒街の話で白黒のドラマですから子供には怖い。父が「こいつはやられる」「そこで逃げりゃあいいのに」「女をかまっていると隙が生まれる」などと誰に言うでもなく独り言を言うとドラマは本当にその通り展開し、やっぱりアメリカでは緊張していないと生きられないな、ピストルで撃たれてやられるなと思いました。これが小4あたりの思考でした。アンタッチャブルは何回か再放送がありましたが、昭和47年ごろ、東京12チャンネルで土曜日の午後五時からやっていました。文藝春秋社の一社提供で、ドラマが白黒だとⅭⅯも白黒フィルム、まだ若かったはずなのに、髪が白く映っているように見える作家さんがⅭⅯに出ていて、不思議な感じがしました。

後から考えると司馬遼太郎さんだったように思います。

父は60歳までメーカーに勤めると、あとは悠々自適、2階の自室でテレビを見て暮らしていました。70歳ごろまでは元気で、あたしと一緒に一回だけ鈴鹿サーキットに付き合ってくれました。名古屋のホテルに一緒に泊まり、近所の、昔転勤で来ていたころからなじみのうなぎやで酒を飲みました。昔の話も随分聞いてあげました。

たぶん父親ののんびりしたところ、鷹揚なところ、でも小さなところで短気を起こすところ、集団に入れば如才ないけれど、基本的には一人が好きなところなど、自分も親の性格の一端を受け継いでいます。

ああしろ、こうしろと、指図することは一切なくありがたかったなと思っています。

さ、このあと、線香1本あげてこなきゃ。

バス停で待っていた

中央線✕駅で実家に行くバスを待っていた。

もともとバス自体が1時間に2本とか3本とかで少ない路線なので、駅で立そばを食べてから悠々とやってきた。ここは、川崎の伯母がよく家に送ってくれる時、池袋を廻るか、(地下鉄)東西線で帰るか?と、小さかったくろやぎに選ばせてくれて、たいてい、東西線で帰る、と答えたもので、何でかというと、中野駅のあたりでふわんと地上に出てくるところがたまらなく好きだったから。

もうこのバス停で実家行のバスを何度も待っていて。そう、なかなか来ない、✕駅は関東バスのエリアで赤と白の関東バスは死ぬほどやたらに来るのに、笹の葉色のB電鉄バスはわずかで少数派だからちっとも来なくてね。ロータリーの向こうの方に駅舎、そして紀ノ国屋(スーパーの方)などが入ったアトレというビルが見える、吉祥寺とかと違って小さなビルで4階建て、その隣に子供の頃からある花屋が新装開店して見える。以前はその駅ビルのあたりに、さえない、清潔感のない立そば屋があって、一度だけ伯母と母と3人でバスを待っている子供の頃、伯母が(あまりにバスが来なくて)立そば食べて来ようかなあって言って、よしなよお店キレイじゃないよって母がいって、バスをひたすら待っていた記憶がある。伯母の声が聞こえる様な気がするな。

ロータリーは横に拡張されていたが基本レイアウトは変わっていなくて、でも、バス停のそばの銀杏の木も、真ん中の円エリアのメタセコイアも楠も見上げるように大きくなっていて、昔は向こうのビルが遮られずに見えたように思えるね。右側のビルは一時期現金買い付けでおなじみの城南電機が入っていたところで。あの初老の社長さんも、テレビに沢山出て、というより世間にもみくちゃにされて、自分の商売のペースをすっかり失い、案外早くに亡くなってしまった。人気者になるのもいいけれど、寿命を縮めてはもったいない。

実家行のバスは夕方にもかかわらず1時間二本になっていたが、そんなこんなの昔を思い出していたら案外早くやって来て、席に着いたとたんに今日の暑さと疲れですっかり眠り、降りる4停留所前の団地入口まで全く知らなかった。

久米宏さんに感謝

長年、TBS東京放送の看板アナウンサー、ニュースステーション等の司会進行役を行っていた久米宏さん(75歳:フリー)が6月一杯で、現在唯一の担当番組である(ラジオなんですけれど)を引退終了することになった。

 

久米さん、75歳なんですね。昭和19年生まれ、田中真紀子さんと同年代。話し方や頭の中身がそれほど変わんないんで思わなかったけれど、そうですか、引退ですか。

 

くろやぎ、自分の母親が昭和40年代、NHKフリークだったので、頭の中はNHKだけで、小学校時代のほとんどを過ごしましたネ。唯一民放を見たのは、不二家子ども劇場のポパイ、あとオバQ、フジテレビで始まったムーミンも見せてくれましたが、第1回でどうも違うなと思い、自分から見ませんでした。あと親が見ていたドラマで民放だったのは木曜20時のありがとう、第二シリーズ、山岡久乃水前寺清子の、看護婦さんのやつ、これは毎回見ていました。中原ひとみ親子が出てくるカルピスのⅭⅯがきれいだったなあ。

 

転機は、小学校6年生の夏にやってきました。有志で7石トランジスタラジオを作ろという、男子限定、大学生のおにいさん3人の監修コーチ手助けのもと、理科室に3日間こもって、AMラジオを作るというのです。トランジスタ7個ダイオード1個、おまえら、はんだ付けは瞬間でやるんだぞ、トランジスタ7秒、ダイオードは1秒でつけろと檄が飛び、3日後、めでたく、東京で一番電波の強いAM局、NHK第一放送590キロサイクル(昔の単位標記ね)音が聞こえました。うれしいねえ。

そこで、各局の受信状況を、、、確かめると、9という字の少し先に、良く聞こえるにぎやかな放送局があって。TBSラジオ、で、ありました。

この瞬間、親の管理下より、メディアを好きなだけ聞ける自由を獲得できたのです。

 

さあ、土曜日です。小学校は早くに終わるのですが、稽古事があって、帰り時間がいつも16時前くらい、自転車で焦って帰って来て。昭和47年の後半、TBSラジオは、「土曜ワイドラジオ東京 にんげんばんざい」というのを、16時まで?やっていました。お昼からなのか、午前9時からなのか、それまでのプロセスは全く分からないままエンディングの5分くらいを聴くんですね、永六輔さんの番組で、蝮さん、久米宏さん小島一慶さん、ニュースデスク、ひととおり一人30秒くらいの中にひとこと言って、親分の永さんがかかかかって楽しそうに笑って、ちょっと若いものに注意して、最後に若くてかわいい声の遠藤泰子さんが番組テーマ音楽に乗って出演者を紹介する、

出演:永六輔毒蝮三太夫久米宏小島一慶、ニュースデスク楽まもる、

TBS950キャスタードライバーグループ(そしてちょっと安どの表情で)遠藤泰子

これを、家で聴いてもしょうがない、そう思って、7石ラジオを自転車のかごに入れて夕日に向かって走りながら聞くというのを、やっていたんです。

この番組、けっこう、おとなのおふざけ色のある番組だったんですが、さすがに11歳の小6男子には、笑うセンスが全く分からなくて、むずかしかったね。NHKは万人向きでぼくにもわかったのですが。おとなの世界ってこういうもんなんだなって。たぶん、永六輔さんの趣味の世界だったんでしょうが。

 

プロ野球中央競馬、ジャズ、両親にない文化をたくさん持ち込み、6年後には、母親もTBSラジオを聴くようになりました。久米さんがメインになった土曜ワイドラジオ東京、女性アナウンサーの石井和子さんが優しい声でいい人だったなあ、あとおすぎとピーコが最高に楽しかった。

すずきくんのこんがりトースト、おはよう土居まさるです、こんちワ近石慎介です、みんなわくわくして、楽しかったですね。

 

だんだん、TBSよりもラジオ関東に移行して、そのうち、世帯主になって、近鉄を応援しながら文化放送を聴くようになって、11歳だったくろやぎももうすぐ60近く。TBSは民放の老舗ですが、昨日書いたラジオ日経同様に、放送局としての維持に対して広告収入が伸びず、お金のかかるらしいプロ野球中継もやめてしまったし、無類の聴取率首位を走ってきた大沢悠里さんの番組も終了して、週1になってしまうし、久米さんも引退。

もう、ラジオパーソナリティを生み出す、そういう要素が世の中にないのでしょう。個性のありすぎる人は個人的にボクは苦手で、久米宏さんもクセのある人でしたが、話し方にオブラートがあって、とてもよかった。芸人さんとか、テレビと同じだからね。小島慶子さんはかなり好きでしたが、毎日あの濃い内容の話をしていたら、4年も続いたのが奇跡のようで、長持ちしないだろうって思っていました。とんがっていたところも、周囲はハラハラしたろうしね。

久米さんがいなくなって、また、TBSを聴かなくなるだろうねえ。CDの時間が増えるんでしょうね。長い間、ありがとうございました。どうかいつまでもお元気で。