ぜんぜんダメ、苦手なキャンプとか合宿とか
小学校の夏の特別授業(植物採集)でも、うまくいかないのに、夏合宿(海の家の)なんか絶対に行きたくなかったのに、母親に(〇〇先生がくろやぎクンのような生徒にもぜひ参加してほしいっていうのよ)って言われたから、行かない???って言われて。
母親のやつ、俺が自分に似て言われたら断れない性格だって知ってて誘導したなって今なら思うのですが、昭和47年勝浦市鵜原の夏合宿に参加しました。
ホントいやでした。
だいたい、ついひと月前まで新宿から気動車乗って行けたのに、知らぬ間に房総西線は電化されて、名前も勝手に変わって内房線。急行「なぎさ」(だったかな?)電車急行で、指定席で行って、
電車かあ、つまんないのって。
合宿は、磯の深さ2~3mのところを潜って泳いで、みたいな会場に毎日毎日通って、何が面白いんだかって一日でした。
親に持たされた水中眼鏡も、水深深いと全然暗くて見えないし、別に子供30人でもぐると海水もにごってきれいじゃなくなるし、陸地にいる時間がだんだん増えてきて。
アルバイトで参加してくれた先輩のおにいさん、おねえさんがよくしてくれたのが、唯一の救いでした。ですから、鵜原って聞くとあのしんどかった5泊6日の合宿が頭から離れませんでした。
帰りは、急行券を買う金がなかったのか??なんて当時の学校関係者に申し訳ないけれど、普通乗車券でのれる、快速白い砂号でした。113系、国鉄では当時まだ珍しかった冷房車でしたが、7月終わりのギラギラした太陽と、セミクロスシートのトイレ前のロングシート部分に小6が4人くらい座らされて、暑かったな。でも、家に帰れるのは安堵でした。
本当に生まれた時からインドアで、いまでも家族以外の旅行、会社の慰安旅行とかも、結構ダメな方で、ぜんぜんそんなことでは慰安されない性格なんでしょうね。