黒やぎの(てくてくわくわく 街道ウォーク)番外編

ふとした事から街道ウォークの付き人になった黒やぎのひとりごとです。ルピナス主宰の(てくてくわくわく 街道ウォーク)(http://kaz-mt-wisteria.hatenablog.com/)とあわせて見てくださいね

レース中の雨に打たれ弱い??

小口荷物を小学校に運送するのを仕事としているくろやぎ。年間180日ほど仕事をしていますが、最近は雨の日がしんどくなってきました。身体が半端に濡れるので、冷えが体力を奪うようで、雨の金曜日とかは一週間の疲れもたまっていて、両方で本当に疲労困憊です。

 

F1の第一日も金曜日でした。以前と違い、レース中は雨合羽観戦が約束になっていて慣れない合羽を持参し・金曜日だけ自由席のS字コーナーというところで観戦していましたが、ホトホト疲れました。ドライバーごとのコース取りの違いを観察して楽しむ余裕は全くありませんでした。特に小雨って、身体の隅々まで水分が入り込んで、最近、しんどいんですね。

最寄駅からのバスの待ち時間も長かった。

鈴鹿サーキットに行く一番デカい駅は、近鉄名古屋線の白子(しろこ、って読みます)(しらこ、っていう人が結構多いですが、にわかファンだとすぐに分かってしまう)から、三重交通バスで通常25分くらい、運賃410円ですが、臨時バスを大量運行しても、金曜日、10月7日の往路バス待ち時間は約2時間。復路(金曜日夕方)は、本田技研稲生寮の向かいの駐車スペースでバスを待って1時間。バスを待つって、脚は立っているわけで、ものすごく疲労しました。

帰りは近鉄の急行は大混雑、すこしでも座りたくて、白子~近鉄四日市まで各停に乗って座り、脚を休めたくらいでした。

急行の最後尾に乗り換えて外を見ていましたが、真っ暗闇に、下り線の信号が自分たちの走ってきたレールに反射してとても美しかったです。

 

 

 

鈴鹿に行ってきた

1966年以来、鈴鹿には何度も行ってきたし、7か月ほど暮らしたこともある街で自分の中では、少しだけ、第二の故郷、ともいえるのです。

今回は、4歳の時以来何回となく、くろやぎのレース観戦に付き合ってくれたウチノ末っ子に御礼を、ということで、お正月から

今年はF1に行くぞ、鈴鹿日本GPに行く、と、決めていました。

だいたい、お正月休みから成人の日の間に、鈴鹿やもてぎのレースカレンダーを見ながら、今年はどこに行くか、考えています。絶対に外せないのが夏の8時間耐久レース、くろやぎは、もともとは二輪派ですが、7か月暮らしたときに、全日本F2選手権とか鈴鹿2&4レースを見たので、今ではどちらも同じくらい好きです。F2最終戦中嶋悟さんは、S字早かったねえって覚えていますが、もう40年近く前の話です。

諸事情に詳しい末っ子に聞くと、F1ひとチームの帯同者はだいだい30~40人だそうで(交代制だともいうので全社員を数えると日本の中規模会社くらいの単位らしい)そんな大人数が欧州からかなり遠い、日本の三重県のとある都市にレースをしにに来ると、まあホテルの数が足らない。だもんで、三重県北中部などサーキットから近所の人以外は最低一泊(公式予選をする土曜日の晩)しないとゆっくりと観戦できないってんで、ホテル確保が最大の難関です。最低でも半年前(だと個人的に思っています)今回は、8耐とF1と一緒に3月に確保してしまいました。

それに比べれば、チケットは、予想通りで、なんてことなく、自由席が買えました。4万とか6万とか言われる良い場所の指定席ではなく、西半分の自由席でどこでもいいよって大人9500円の切符、それでも、ローソンチケットで発売日に10分で消えた他の高価な席よりも残り、3日間くらいはありました。

 

高いですよね。

たぶん、上納金を払うためでしょう。(FIAにね)

 

木曜日の晩、新幹線で名古屋に向かいました。わたくしのネットで確保したホテルはくれたけとかいう、これまで聞いたことのないホテルですが、何でも静岡県の会社(呉竹荘という)倒れそうな地方のビジネスホテルを再生しつつ大きくなったとこ、らしく、名古屋駅の近くのホテルはなんと新築1年だそうで。部屋はダブルベットでふっかふかだし、テレビの付け方は夏に泊まった東横インとほぼ同じだったし、朝ご飯はチャーハンとかカレーライスがとてもおいしくて、それでもって一泊シングル8000円位。

 

この辺で第一回は終わっとこうね。

 

もうひとつ前の夏合宿

私立Ⅹ学園の合宿の前、6歳の時に行った、幼稚園の中軽井沢合宿のことも書きますね

わたしは、早生まれだったから5歳ウンか月なんですが、上野駅の地平ホーム??だったかなあ?集合して、母親と別れて、信越線の、準急なんとか、乗って行きました。電車で169系だったと思います。

6歳ですから、動揺する園児が周囲には多く、行きの電車の中でああこう言ったり泣いたりするやつもいました。まあ、しょうがないなあ、どうも3日間くらい親には会えないらしいな、腹くくるしかない、ってくろやぎは思っていました。宿舎はひろく、幼児向けのご飯はおいしく、苦手のスイカも何とか食べて、書けと言われて家にはがきを書いて、くろやぎが書いているところをのぞき込む子がいる写真が、実家に残っています

軽井沢は涼しくて、とてもよいところでした。

行きも帰りも電気機関車(数台?)にひいて、あるいは押されて。

横川なんて地名は知りませんでしたが、機関車が離れて、普通に電車が走り出すと、群馬の田舎はちょっと暑くて、でも窓開けっぱなしでも昭和40年ごろの夏は今ほど暑くなくて、快適でした。夕食の弁当を早く食べなさいと言われいわれして、ようやく赤羽で食べ終わると、すぐに上野。集合場所と同じところに母親が待っていて、うれしかったなあ。

上野駅の地平ホームから、上野公園側の山手線のホームに上がる構造をこの時覚え、デカい駅でも物怖じしなくなりました。いつかは着くと。小学校2年のときの遠足で新宿駅の団体集合解散場所から正反対西口側の山手線ホームまで、同級生10名を連れて、こっちだろうと誘導できたのは、ささやかながらくろやぎの誇りであります。

帰宅した翌日の朝、アパートの大家さんのポストに、軽井沢で自分が投かんしたはがきが着いていて、おおやさんのおばさんに、立派な字を書くねえとほめられました。

ぜんぜんダメ、苦手なキャンプとか合宿とか

今週のお題今週のお題「キャンプ」

 

小学校の夏の特別授業(植物採集)でも、うまくいかないのに、夏合宿(海の家の)なんか絶対に行きたくなかったのに、母親に(〇〇先生がくろやぎクンのような生徒にもぜひ参加してほしいっていうのよ)って言われたから、行かない???って言われて。

母親のやつ、俺が自分に似て言われたら断れない性格だって知ってて誘導したなって今なら思うのですが、昭和47年勝浦市鵜原の夏合宿に参加しました。

ホントいやでした。

だいたい、ついひと月前まで新宿から気動車乗って行けたのに、知らぬ間に房総西線は電化されて、名前も勝手に変わって内房線。急行「なぎさ」(だったかな?)電車急行で、指定席で行って、

電車かあ、つまんないのって。

合宿は、磯の深さ2~3mのところを潜って泳いで、みたいな会場に毎日毎日通って、何が面白いんだかって一日でした。

親に持たされた水中眼鏡も、水深深いと全然暗くて見えないし、別に子供30人でもぐると海水もにごってきれいじゃなくなるし、陸地にいる時間がだんだん増えてきて。

アルバイトで参加してくれた先輩のおにいさん、おねえさんがよくしてくれたのが、唯一の救いでした。ですから、鵜原って聞くとあのしんどかった5泊6日の合宿が頭から離れませんでした。

 

帰りは、急行券を買う金がなかったのか??なんて当時の学校関係者に申し訳ないけれど、普通乗車券でのれる、快速白い砂号でした。113系、国鉄では当時まだ珍しかった冷房車でしたが、7月終わりのギラギラした太陽と、セミクロスシートのトイレ前のロングシート部分に小6が4人くらい座らされて、暑かったな。でも、家に帰れるのは安堵でした。

本当に生まれた時からインドアで、いまでも家族以外の旅行、会社の慰安旅行とかも、結構ダメな方で、ぜんぜんそんなことでは慰安されない性格なんでしょうね。

 

 

日本って、夏は冷やし文化ですね

今週のお題

みなさんの文章もたくさん読みましたが、日本って、夏は冷やし文化ですね。涼を求めることには敏感、どんよくと言えるのではないでしょうか。

日本中に電気冷蔵庫の普及ってだいたい40年から50年くらい前でしょうけれど、(もっと前か?前かも、うちの両親は新婚の時に月賦で買ったって言ってたから)冷凍庫のふきゅも結構早かったし、みんな使い方が上手ですものね。お菓子を冷やしてみるっていうのもみんなが冷蔵庫を持っているからです。冷凍冷蔵庫と電子レンジがあればたいていのことができますし。

平成の初め、山梨県で完全一人暮らしをアパートのエアコンはちょっと後にしたけれど、冷蔵庫は真っ先に買いに行きましたね。甲府の街中まで行ってダイエーで。まだ地元の人と仲良くなっていなかったから、デイバイデイとかは知らなくて。ダイエーがまだあったころです。ちょっとだけ電気製品も安くて。まだアマゾンなんて全くなくて。

冷えたビール、多くゆでておひるに食べ残して夕飯にもなった冷やしそうめん、夜間で沸かしたあと冷蔵庫でよく冷えた麦茶、ルピナスの好きな冷えた枝豆、日本の夏はこういうものがとても美味しいです。