黒やぎの(てくてくわくわく 街道ウォーク)番外編

ふとした事から街道ウォークの付き人になった黒やぎのひとりごとです。ルピナス主宰の(てくてくわくわく 街道ウォーク)(http://kaz-mt-wisteria.hatenablog.com/)とあわせて見てくださいね

本当は夏の歌なのかわからないが?

今週のお題「夏うた」

昭和47年、小学校六年生の時に、全く行きたくなかった千葉県鵜原の海合宿っていうのに親の意向で行った。正直言って全く行きたくなかったが、親が行ってくれたら助かるみたいな顔でいうので仕方なく。

当時は東京地下駅から電化されていて、したばっかりで、新宿から内房号という急行に乗っかって行った。少し前に作った6石トランジスタラジオも持って行った。

鵜原は千葉県勝浦市?のあたりで昔ながらの畳の大部屋がいくつか並び、小学生8人部屋、付き添いの先生やアルバイトの大学生など。海で泳ぐのはだいきらいだったので、先生に叱られない程度、最小限にして7日間を耐え抜いた。

最終日、羽目を外した寸劇などを大学生のおにいさんたちがやってくれた。こんな唄があるから、という。

それが小林亜星作曲 レナウンのうた??

メロディも歌詞も完璧に覚えた。いまでもさびの部分はきちんと歌えると思う。レナウン娘が、オシャレでシックなレナウン娘がわんさかわんさか×2 イエーイエーイエイエイ。

何てことない唄なんだけど、キリスト教学校で真面目だった小学生には斬新だった。

帰りは急行券買う金がなかったのか、みんな、113系の快速電車 青い海〇号で東京駅まで帰ってきた。

昔、房総西線のディーゼル急行で、海水浴の帰りに両国駅に降り立ったことのあるくろやぎは、電化されて新しくなった東京地下駅を感心しつつも、あの両国駅は亡くなってしまうのかと、近代化のために消えていくものの寂しさも感じていた。

気に入ったTシャツ

今週のお題「お気に入りのTシャツ」

末っ子が小学校二年生の時からずっと行っていたのが、7月の終わりに開催される、鈴鹿8時間耐久ロードレース、オートバイの長時間レースです。

このレース1978年から毎年くそ暑い夏に、8時間もの長い間、鈴鹿サーキット国際レーシングコースをぐるぐると走り続けるレースで、チーム、選手、オートバイそのもの、そして見ている観客にも耐久力と気の長さ、そして厳しい夏の暑さを強いる、とんでもないオートバイレースです。

私がこのレースを、全部、朝から晩まで見たのは2001年、もう40歳になっていましたが、暑さ、時間の長さ、午後~夕方~日が沈む~ナイトレース~ゴール、すべてに疲労と感動を伴うもので、レース後の打ち上げ花火も含めて、素晴らしいものでした。もちろん、長~いレース時間に飽きない、というのが大事で、くろやぎ、こういうことには全く飽きない性格なのです。長ければながいほど良いと思っているので。

わたくしはいつも、ヨシムラ、というチームを応援しています。ヨシムラはオートバイに乗る方でしたら、世界中誰でも知っているバイク用品、特に排気筒などの有名メーカーであるとともに、創業者が天才的なチューンナップ技術者で、既存のオートバイの部品軽量化とエンジンの出力アップに命を懸けた男でした。オートバイ技術者としてはホンダの創業者、本田宗一郎さんとほぼ互角の能力を持ち、いつ眠っているのか分からないくらいにガレージで働きづづけ、仕事には鬼のように厳しいのですが、レースの成績が上がらないとレーサーを呼んでも決して彼のせいにせずやさしく「素直に言ってみろ、オートバイが悪いんだろ??」というような性格の人でした。

いま、レース監督は3代目に若返っているのですが、8時間耐久に関してはオートバイの出来に関してはいつも全力、よすぎる性能、驚きの出力、いつも優勝候補なのにそれが必ずしも成績には結びつかないこともしばしばあり、過去42回の大会で優勝は4回、最初の10分で消えた(オートバイですから転倒などで)年もまああり、わたしにとってはホンダなどの一流メーカーと違って、応援のし甲斐のあるチームであります。

ヨシムラのTシャツは、サーキット通路に出る売店などでいつも買っています。末っ子も帽子、応援旗、Tシャツを何枚も持ち、それを誇りにしています。ヨシムラの売店は神奈川県の本社から社員さんが直接出向いてくるらしいのですが、金曜日など、誰もお客さんがいなくなっても、最後まで売店の明かりがついていて、なかなか商売熱心でありファンを大切にしてくれます。以前はキーホルダー一つ買っても、大きな袋に入れてくれました。ありがたいことだと思います。

ですので、ヨシムラと書いたTシャツ全て、愛着があります。

 

あ~水戸に行きたい

幼少の頃から、納豆には慣れ親しんでいますのは、あたくしが東京の人間だからでしょう。5歳くらいの頃から食べています。

比較的時間のある日曜の朝食なんぞによく納豆が出て参りまして、あたくしはまだ幼い5歳男子ですので、母親が(納豆は消化が良くないから)とわたしに配慮して、包丁で細かくしたりして。ありがたいですよねえ母親っていうのは。でも、それから50年以上納豆を食べていますが、特に平成からこっちは生卵入り納豆という、決して消化の良く無い食べ方をしていますが、納豆でおなかの状態が悪くなったことはまずなく、食前から調子が悪く、納豆を食べてもっと悪くなったことはない、と、自分のことでしたら断言できます。

納豆ごときでおなかをこわすほど、ヤワな日本人をやっているわけではありません。

小学校はじめの年齢で引っ越しましたが、食卓に出てきたのは、青木屋という製造会社の水戸納豆という銘柄でした。青木食品工業株式会社、府中市の会社でした。小さなころからそういうのが見るのが好きな男の子でしたね。母親に聞くと「知らないけれどどうせちっちゃぁな会社よ」と言いました。食べ物を作るのだからそう小さくないだろう、少なくともいつも買いに行く不二ストアーよりはでかいだろうって、子供の頃、想像していました。

その癖は変わらず、いま気に入っているのは、東村山市にある保谷納豆という製造業社のもので多くの種類があるのですが、炭火焼き製造法とかいう特許を取ったものだそうで、ちょっと癖のある納豆のかおりというかにおいがありますが、いとをひく度などは申し分なくすばらしいです。一度クロスバイクで近くまで行きましたが、本社工場が2棟になっていて、わたくしの目には大製造会社に見えたので、大いに満足して帰ってきました。

でも世界シェアでは零細なのか?力がなのか、近所のスーパーの売り場が撤去されたり種類が減ったり、しばらく見ないと思っていると価格が不当に高くなっていたりして、保谷納豆の利益が減って可哀そうになあと思っています。カパッと大パックを買って一回で全部食べたりしておりました。

納豆といえば、わらに入った納豆も素晴らしいですね、

特に水戸の有名メーカーのモノはどれも美味しく思います。あのわらに入って、発酵のよく進んだ部分の横に、半分乾いて豆が硬くなっているところ、ここが混在するところが、すばらしい。あれは、あ××納豆や愛知県半田市の某お酢メーカーが買収した納豆会社では絶対に作れない味であります。特に笹沼五郎商店といったかな、大きな渋いわらで売っているあの納豆は素晴らしくおいしいです。

先日関東ローカルニュースで、コロナウイルスで売り上げの減った上記水戸の製造業者を救済すべく、JR水戸駅の構内で特別に売っているコーナーがあり、わたし、そっと夜明けとともに家を出て、水戸まで買いに行こうかと思ったくらいでありました。いま東京は新規コロナウイルス感染者が全国最多なので、じっと我慢していますが、静かになったら鈍行電車で水戸に行って・・・と今から夢想しております。

今日食べたのは

今週のお題」 好きなアイスについて

 

きょうは、5連敗か?ずっとロッテマリーンズに負け続けている、オリックスの試合をテレビで見ながら、ハーゲンダッツ(白桃)を食べていました。涼しい日でしたので、ちょうどよく。

野球ですか?やはり、負けました。勝ち運がないみたい。6連敗です。負け仲間の阪神タイガースは昨日勝ったみたいで(今日のことはまだ知らない)日本のプロ野球球団で一番というか極端に成績が悪いのがオリックスであります。別のラジオの方の解説者がチームがバラバラとか言っていました。ちょっと悲しいなあ。

でも、気を取り直して、火曜日から応援します。

子供の頃、雪印シャーベットがとても好きでした。オレンジ味しかなかったような気がするなあ。でもどこのパン屋、駄菓子屋、おばちゃんが一人でやっているような小さな商店、どこにでも、大きなスノーブランドマークの雪印アイスクリームの冷凍庫がどんとおいてあり、7歳くらいの子供だったら覗けるような高さで、さまざまなアイスが陳列されていて、冷凍庫の周りにはしもが付いていて、あれを見るだけで、美味そうだったんですよ。今の、コンビニやスーパーのちょっと無機質な冷凍庫と違ってね。最後に食べたのは昭和47年頃だったかなあ?オイルショックと共に、同製品は目にしなくなりましたねえ。

アイスかあ、これから暑くなってどんどん美味しくなるでしょうねえ。

 

最下位候補のオリックスを応援しています

お題「#応援しているチーム

中学一年からプロ野球近鉄」という弱いチームを応援していました。朝日新聞の運動欄(パ・リーグ成績)でいつも一番下。ビリ。一番はその頃阪急ブレーブスで、成績もダントツでした。

育った家はプロ野球を全く、ぜんぜん、長嶋も王もなにもない家で、誰もナイターなんか掛けないし、見もしない。その中、全く独力でプロ野球とは何か、近鉄の弱さの根源は?と杉田玄白の解体新書にように手探りで研究していました。

翌昭和49年に(若手教育で有名な?)西本幸雄さんが近鉄の監督になりました。それまでぬるま湯、同好会気質の近鉄が少しづつ、投手陣も野手も整備され、王者阪急にちょっとですが勝てるようになって。当時はパリーグのテレビ中継はほとんどなく(年に数回のNHK総合テレビくらい)ラジオはNHKが週1回から2回くらいありましたが、近鉄をはじめとするパリーグの中継は勉強を置いてでも聴くようにしました。

よく覚えているのは昭和53年ごろの(クラウン対近鉄)戦で、近鉄がリードしていたのですが最終回のクラウンに猛攻を食らい、最後は大田卓司選手のサヨナラ安打であっさり負けたことでした。クラウンは決して強いチームではないのですが、観客の声援がものすごく、最後は大騒ぎになるほどでした。なるほど西鉄を盛り上げた平和台のお客さんのパワーを感じました。

近鉄はその後も苦労するのですが、前後期制や上田利治監督が勇退された時期に阪急がちょっと弱くなったこともあり、昭和54年に初優勝、55年にも連覇をしました。江夏さんやライトルさんなど広島カープに比べればまだまだでしたが。

西本幸雄さんがいなくなった後、がくんとチーム力が落ちるのですが、長年コーチだった仰木さんが監督になって、若返って、川崎で10・19で涙をのみますが翌年にはにっくき西武ライオンズを破って優勝します。

そんなこんなで、近鉄がなくなった後、オリックスを応援しています。

オリックスも選手の多くは不器用で、数人のエース格の投手、吉田正尚を中心とするやや長打を打てる者以外は、まだまだ力不足で、首脳陣もまた素人から見るとなぞの采配が多く、白星を取りこぼしやすい体質なのですが、いつもいつも週刊誌で評論家たちに軽く見られているのを、今年こそ何とか払拭してほしいと思います。4位でいいから。