ひきつづき、さくらについて
桜と書くと、いま、表で咲いているソメイヨシノになり、平仮名のさくら、と書くと、昔、長崎まで一晩掛けて走っていた、寝台特急のイメージがありますね。子供の頃、東京駅を16時30分に出て、長崎に翌日のお昼ごろ着いて。一晩走って、何事かを成し遂げたような、でも半分は眠くて脳が動いていない、そんな一日を過ごす、夜行列車の旅もほとんどできなくなりましたね。
桜は前年の秋に冬に備えて葉を落とす頃から、もう翌年の花芽がちいさく出来ていて、それが、少しづつ大きくなって、半年近くて掛けて今に至るって、準備万端、長期的視野に立って咲かせてくれるのです。ありがたいものです。人間の方が贅沢で、花が咲いてから散るまでしか観察していないし、「もう葉桜だ」などといって眺めなくなっちゃうし。このあと、葉の芽が大きくなって、五月の連休の頃から、夏の終わりまで、ゆったりと大きな日陰を作ってくれて、ありがたいですよ。人間の方がぜいたくで美味しいところ取りをしているように感じますね。
今年も咲いてくれてありがとう。
雪の卒業式
今週のお題「卒業」
はい、くろやぎです。
遠いところでは小学校の卒業式。あたしの居た、私立✕学園小学校の卒業式は、あたしの誕生日でした。昭和48年のこと。先生から扉に名前の入った讃美歌を頂いて、お茶の会をして。いや、お昼も食べたのかな。ほんわかした、良い卒業式でした。
小学校は良かったのですが、進級してみると、どうも✕学園は、中学も、高校も、卒業式はないらしいことがわかったのです。その上の、4年間の各種学校(女子は2年間)まで進み卒業しないと、卒業式をやってくれない学校だったんす。この文章を読んだ皆さんには信じられないでしょうが、今でいう中高一貫みたいにですね、中学+高等学校+各種学校(一貫校)みたいな考えで、男子なら10年かけて教育する、と学校は言い、たしかに卒業式も見学させてもらいましたが、10年先って随分とおい話で実感がなく、なんとなく違う方向に目が向いて、高等学校修了で✕学園から違うところに行きました。
6年も居たのに、仲間とのサヨナラの儀式もなく、担任にがんばれよ元気でなと、校庭で激励されることもなく、そっといつものように下校しました。
なんですか、こっちが悪いことをしたわけでもないのに、高校中退でもしたかのようなさみしさを味わいましたねえ。
そんなこともあったので、ウン年ののち晴れて(本当の大学生)になったときはとてもとても嬉しかったですねえ。電車の線路沿いの桜が満開で、向かいのシートに座っていた外人さん二人が綺麗だねえと言っていましたよ、はいもちろん、英語で。
順調に大学生活を過ごし、ま、ちょっと時間がかかりましたが、卒業式まで参りましたよ、昭和48年以来、13年ぶりの卒業式。3月23日でございました。当日は、曇天でものすごく寒く、卒業式会場の学園講堂から出ると、うへっつ、雪がかなり積もっていて。びっくりですよう。
雪のせいで、小田急線は止まるわ、卒業生は移動できないわ、で、当日は公式イベント類はすべてキャンセル状態になり、まだ、携帯電話のない頃ですから、どこに誰が行ったのかも不明なまま、三々五々ちりじりになって、帰ってまいりました。夕食を何処で食べたのか、どうやった来たのかもきれぎれな記憶のまま、とにかく、ルピナスの地元の駅に降り立ったのは夜も結構遅い時間でした。タクシーを長い間待って、帰宅しましたが、あたしを見送るために待っていていてくれたルピナスを迎えに、義父が寒い中ずっとお店の軒先に待っていてくれていたことが忘れられません。とても申し訳なく思いました。
3月にあんなにたくさん降った雪は、その後、記憶にありません。
この間、末っ子の高等学校の卒業式に参りました。ルピナスに聞くと(とてもオーソドックスな内容)の式だそうで、(あたしはそんなわけで経験がごく少ないモンでわかんないンです)みんな嬉しそうにしていました。式のあと教室でお別れの儀式をして、親しい仲間たちと外で写真を撮り、あたしんとこに来たのは大分経ってからでしたが、彼の満足そうな顔を見て、とても楽しい高校生活だったことが分かり、嬉しかったです
浅草へ行きました
まだ、小学生や中学生だった頃、両親に連れられて浅草に何回か行きました。
母は、元々は今の江東区(深川、猿江)の生まれで、戦災で焼け出されるまで住んでいましたから、浅草は身近でした。私たちはよく、そばの尾張屋に行き、両親は、天ぷらそば、わたしは冷たいそばの方が好きなので、ざるそばを食べました。沢山のテーブルはいつも満席で、どんぶりから大きくはみ出るほどの、大きなエビの乗った天ぷらそばだとか、天丼を食べている大人が沢山居ました。
あの頃、平日の午後、15時くらいに、東京12チャンネルで、映画の時間がありまして提供が(浅草うまいもの会)そのcmは独特で、白黒の静止画に店の屋号と店内風景が二枚、短時間に店の特徴と屋号を簡単に連呼するコマーシャルでして、「そばの尾張屋」と聞くと、おおって思いました。
いまでも、浅草うまいもの会のラジオのⅭⅯは、YouTubeで聞くことが出来ます。早口ですよ。アナウンサー力が試される内容です。
浅草は、池袋から私鉄で25分もかかる遠方の土地から、そうそう月に何度も行ける場所ではありません。決心しないといけません。体力気力が要ります。
それでも、20代の頃、何回も行きました。尾張屋に行ったり、母に教わってルピナスと今半に行って、大座敷で一番安い牛丼を頼んだり、大黒屋は行列が長くてあきらめたり、あとどこでしったけ、別のお蕎麦屋さん(ざるを逆さにして、もりそばが出て来る有名なところです)にも、たしか、行った記憶があります。今半の牛丼はとってもとっても美味かった。肉がとても上質でした。
そして昨日は、家族を含めて、7人で夕飯を食べました。
雷門に夕方集合ってことで、そこまでは、単独行動。
あたしは、ゆっくりと各駅停車でおもむき、でも、まだ、集合時間までたっぷりあったので、浅草の一つ前の田原町(たわらまち)で降りて、階段を登りました。田原町の地下鉄の階段を上がったところに、やきそば屋さんがあったはずで、たしかめるまでもなく、ソースのいい香りがしてきました。この香りをかぐと、とても安心します。
浅草に来たんだなっていう気がします。
暗くなって来ました。にわか雨の天気予報、あたりでした。薄暗いでしょ。
雷門一丁目で30分以上、アーケードの下で雨宿り。沢山の人、観光客、地元の人、老若男女が通ります。地元の人、早口、声が強い、表現がよくないが、下町の人ってぼくらから聞くとどすが効いたような迫力のある声の出し方をしますね。
やっと雨が止んだので、アーケードを伝い雷門に向かいます。そばの尾張屋は健在でした。今は、特に飲食店の栄枯盛衰が激しくて、老舗といえども何があるか分からないと思います。古くからのお店が健在だと嬉しいですね。
一人だけ集合時間に遅れるとラインをしてきた末っ子を待つため、しばらく雷門に居ましたが、お参りしようかと、ルピナスと仲見世を歩きました。ここもたくさんの人がいます。でも、観音様は17時で閉まっているし、沢山の人出があってこその浅草ですけれど、どこにでもある食べ物やさんには、若い人たちがいましたが、中にはお客さんの入りが少ないお店もあって仲見世ですから家賃や地代も高いだろうに、大変だろうなあって思いました。
昨年亡くなったあたしの母親が好きだった、カワチヤという地味なお煎餅屋さんで、堅焼きの煎餅を買いました。
雨宿り中に携帯で撮った写真です。雷門一丁目交差点にて
今週のお題 変わってなかった
さっき、ブログネタないかなって、今週のお題見たけれど、まだ、歯みがきの話と、未来予想図、要するに先週から更新されていなかった。
ネタがないなあ。
あっ、きょう、ホワイトデーだった。
以前はホワイトデーって大騒ぎで、コンビニでもスーパーでも百貨店でも、さあなんでもありますよって、売り場に活気があって、お兄さんやおっさんたちが、半ば義務感で必死に探していた。そして、結構何でもあった。
でも、いまは、静かですよね。
景気が後退したからか?
男子に元気がないのか?
ラジオのプロ野球中継が減ったり、長距離列車の自由席が無くなったり、車内販売が廃止されるように、ホワイトデーも衰退しているのか?
もしそうだとしたら、結構淋しいものですね。
むかし?ルピナスに、何を返しただろうか??